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◎俳優/脚本家/演出家

学生時代より演劇活動を開始。
地元札幌にて、劇団P-PROJECT主宰、作・演出・出演をこなす。
92年、劇団俳優座入団。
95年「ソフィストリー」エクス役でデビュー。
98年「あなたまでの六人」で読売演劇大賞、優秀男優賞受賞。
05年 俳優座を退団してフリーに。
08年 劇団野良犬弾「underground lovesong」で作家・演出家として活動を再開
現在、俳優/脚本家/演出家として活動する傍ら、実は小説家も狙っているらしい…

○この世に出会う

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生まれは真夏の8月21日 両親ともに生粋の道産子。

子供時代は体が弱く、医者から、「この子は今晩もう駄目でしょう」と言われたこともあった。
しかし母は「絶対に死なない」と言い切り、本当にその通りになった。
その確信はどこから?

「生命線が長かったのよ」・・・・・まさかの手相?

体が弱いから、おとなしいかと思いきや、相当やんちゃなくそ坊主だったらしい。
幼稚園の面接に行って、「この子は預かれません」と太鼓判を押された。
母は泣けて来たらしい。その母の涙を見た園長先生のフォローで無事入園。
よかったね。

30年後、そのくそ坊主の子供がまさに同じキャラだった。 因果・・・

○美術に出会う

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そりゃあもう、みごとに成績は悪かった。でも、絵だけは上手かった。
「これが俺の生きる道!」っていうか、そこしか道がなかった。

そんなわけで、教育大学の美術科を受験。
2週間の一夜漬けで可能性薄と言われた下馬評を見事に覆し、合格。
「お前、何で受かった?」と担任に聞かれた。
・・・おかげで奇跡を信じる性格になった。

大学生はカルチャーショックの連発。
ここから自分の本当の人生が始まったと言っても過言ではない。
(大学デビューって言うんですか?)
大学3年で彫刻を始める。ひたすら石を彫る日々。
その作品群は実家の庭においてあります。他に置くとこないんだもん。
しかし、親は少し迷惑らしい。

○演劇に出会う

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大学二年生の時、地元札幌に札幌本多小劇場が設立。
付属養成所が合わせてできた。
その歌い文句が「札幌で初めてプロの俳優を養成する養成所」

「プロの俳優」

食いつきました。がっつりと。養成期間は2年間。
今まで見た事のなかった東京の小劇場がたくさん来ました。
第三舞台・扉座(当時は善人会議)・花組芝居・ワハハ本舗・・・・
列挙するときりがない。野田秀樹・唐十郎・北村想・・・・
すっかり影響を受けたかえる君は、養成期間の後に、劇場付きのプロの劇団として活躍する日を夢見ていたのでした。
ところが3年目、本多撤退。

え?「プロの俳優」は?

無理もない、時代はバブル絶頂→崩壊。
そんなわけで、路頭に迷った卒業生は自分たちで劇団を作る事を決心。

こうして劇団P-PROJECTが発足。

作・オレ様 演出・オレ様 出演・オレ様というオレ様劇団。
しかし仲間内では、オレ様座長であるにもかかわらず立場が低く、ついに最後まで「主役やりたいんだけど」と言い出せなかった。
言ったら「ふざけんな」とか言われそうだった。
ほんとに座長なのか。
劇団は4年間続き、劇団内外で12本の作品を演出。

そして更なるステージを目指して、東京へ行く決心をする…

○俳優座に出会う

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札幌小劇場時代は、良くも悪くも全てが我流。
はたしてこのままでいいのか…考えた末に出した答えは…

「そうだ、新劇に行こう!」
新劇に行けば、アカデミックな演技の勉強ができると思ったんですよ。
観た事もなかったくせに。……いいのか、それで決めて。
当時、研究生の授業料が無料だった劇団が二つ。俳優座と無名塾。
「どっちか受けたら、入るんじゃない?」持ち前の超楽天的な性格。

そんなわけで先に受けたのが俳優座。
試験官には、なんと加藤剛さん。「げっ、大岡越前じゃん!」
聞いてないよ。知らないよ。さあ試験会場は一気にお白州ムード。
「君は、北海道出身なんだって?」(声、加藤剛)
声良すぎです。瞳がまっすぐ見つめています。何でも白状します。
頭の中で一人時代劇やっている間に、試験修了。

奇跡の合格。
そんないい加減な入団に関わらず、12年間在籍する事となったのでありました……

○演技という大海に出会う

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俳優座に在団12年。本公演出演6本。

……6本?少なくね?

実は在団中出演した舞台の殆どが外部出演。
大きいのから小さいの、歌うのから切り合うのまで、様々な舞台に出演いたしました。
色んな作品、色んな脚本、色んな演出家、そして色んな共演者。
視点が変われば考えも変わる。失敗して学んで、また失敗する。
そんな事の繰り返し。世界は広い。自分のできていた事なんて、小指の先ほどもなかった。
本当に幸せでいい経験をしました。

そして俳優座の4年目から映像の現場にも出るようになり、ここでもまた目からウロコ。
ホームに戻ったりアウェーに出たりしているうちに、ついに俳優座という港を出て大海へ出る決心をしたのでした……

○再び創作に出会う

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東京に出てからは役者一本でやって来ました。
が、40歳を過ぎた頃、自分の中に新たなウズウズが……

役者というのは「待つ」のが仕事です。
役を待って、出番を待つ、評価を待つ。
それが嫌だというのではありません。
だけどもう一つの欲求。

「攻めたい」

自分から作りたい想いが次第にふくれあがって来ました。
縁あって知り合いの劇団「野良犬弾」に書き下ろした作品「underground lovesong」で劇作を再開。
20年ぶりの書く、演出する、作り上げるという作業は、自分の中の新たなスイッチを押しました。

そして、また新しい冒険が始まったのです。
旅はまだまだ続く……


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